劇の快速船、カティー・サーク」
イギリス・東インド会社は、1600年の創設以来、中国茶輸入の独占権を与えられ長い間高い利潤を得ていましたが、1833年、貿易が自由化されると一獲千金を夢みていっせいに中国へ帆船が出発しました。
香りの高い新茶を速く運んだ船員には、プレミアをつけるという習わしが生まれ、次第に中国通いの快速船の建造が始まったのです。
アメリカのクッパー船もライバルとして登場し、イギリスへのティー・レースは激烈化しました。
しかし、1869年スエズ運河が開通し、20年近く続いたティー・レースは幕をとじ、最新型快速船「カティー・サーク」は完成が遅れレースへの参加もなく悲劇の運命をたどりました

ちなみに、1912年かの有名なタイタニック号事件が起きた年に「お茶の志鎌園」は、誕生しました。



閤と三成、お茶がとりもつ縁」
太閤秀吉が、かつて長浜城主のとき、ある日鷹狩をもよおし、終日山野をめぐり山寺で憩い茶を求めました。やがて眉目秀麗なる小坊主が、大茶碗にたっぷりぬるい抹茶をたてて捧げました。秀吉は一気に飲みほし、今一服と所望すると、次は中茶碗にやや熱く半分の量を捧げました。秀吉はこころみに三度所望しました。すると最後は筒茶碗に、いとも熱く少量をうやうやしく進めました。
秀吉はそれをのみ、小僧の才智に感じ入り名をたずねると、石田村の水飲み百姓佐吾郎の次男佐吉と答えました。そこで秀吉は和尚に乞うて連れ帰り、小姓としました。この小僧が後に天下に名をなした器量人、石田三成その人です。



出品の先駆をなしたお茶」
1858年、徳川幕府は、長い鎖国をとき、先ずアメリカとそして翌年オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に通商条約を結び、世界市場に門戸を開いた。
各港には続々と外国商人が集まり、わが国からの輸出品は、まず第一に生糸と並んでお茶が主体をなした。
日本茶の輸出先は、当初大部分がイギリス、ヨーロッパ諸国、アメリカなどであった。
ヨーロッパに知られていた高尚な文化であった茶は、次第に資本主義的商品となり、世界市場から徐々に遠ざかったが、今再び人々は「茶の心」に関心を向けつつある。



メリカ独立はお茶が原因」
米国の独立は、「ボストンティー・パーティー事件」に端を発した。これは、英国が米国の買い入れる中国茶に重税をかけた。これが米国人の反感をかい、ボストン(マサチューセッツ州の首都)停泊中の英国船を襲って茶箱を海中に投げすてた。
英国は陸戦隊をあげてこれに応戦。騒ぎは拡大して米国独立戦争(1775〜83)へと発展した。
すなわち茶が米国の独立を促すことになったのである。


日本茶の 美味しい飲み方。
美味しいお茶のできるまで。
百薬の長、 日本茶の効能。
知って得する お茶の歴史。